自身の命の力を高めるために
「自分と同じ意見の人間が他にもたくさんいる」と宣言した瞬間に、その人は「いくらでも替えが効くので、いなくなっても別に困らない人」というカテゴリーにおのれを分類してしまう。
‥(略)‥
命の力を高めるためには、「私がいなくなったら、誰もそれを言う人がいなくなるようなこと」だけを選択的に語ったほうがいい。
これは僕の経験的確信です。
自分以外の人でも言いそうなことはできるだけ言わないでおく。
誰でも言いそうなことをあちこちで言い募って時間を浪費するには人生はあまりに短いからです。
(そして同じことを最後に繰り返して言う‥)
もし、何か言葉を発する機会があったら、できれば、「こんなことを言うのは、この広い世界で私ひとりではないか」と思えるような言葉を選択したほうがいい。
そう思っている人は、簡単に地上から消えるわけにはゆかないからです。だって、自分がそれを言わなければ、誰も代わりに言ってくれないんですから。
なんとかして、自分の言葉を誰かに届かせようとする人は、あたう限り丁寧に語る。情理を尽くして語る。
---困難な成熟より
自分を売らない思想より
偏っていないことは、状況にコミットしていないことと同じである。自分は責任をとりたくない、ということでもある。生きている限り、選挙では誰かを支持するはずだ。
ところが、公正な意見を、といって自分は高見の見物をしていて、審判の立場に立ちたがるのである。そんな審判は地上から離れて天上界に行ったほうがいい。
繰り返すが、中立公正な意見があると思う人は、死んでいる人だ。そういう人間が多いから原発が止まらないのである。
---だまされない思想(自分を売らない思想)より
肉の塊
体のいいなり(内澤旬子箸)より
四度の手術で私が得たこと、それは人間は所詮肉の塊であるという感覚だろうか。何度も何度も人前で裸にされて、血や尿を絞り出しては数値を測って判断され、切り刻まれ、自分に巣喰う致死性の悪性腫瘍という小さな細胞を検分されるうち、自分を自分たらしめている特別な何かへのこだわりが薄れてしまった。
人間なんてそんなごたいそうなものではない。仏教の僧侶が言うとおり、口から食物を入れて肛門から出す、糞袋にすぎない。
私のように意志ばかり肥大させて生きてきた人間には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。独立した存在だと思っていた精神も、所詮脳という身体機能の一部であって、身体の物理的影響を逃れることはできない。私はそれをあまりに無視して生きてきたんじゃないだろうか。
ゴッホの手紙 より
あれが描きたいとかこれが描きたいとか言わず、靴を作るような調子で、何ら芸術的な配慮なしに仕事すべきだとだんだん信じて疑わなくなった。
‥(中略)‥
もっと多くの絵を仕上げ、もっと念を入れて仕上げたい。困難な時期にいろいろ起こるこうした考えや、移り変わりの激しい効果はついに実行を不能にさせ、経験と毎日のちょっとした仕事だけが、長い目でみればより完全に、正確に、円熟させるのである。したがって遅い長い仕事だけが唯一の道であり、良い作品を仕上げようとするいかなる野心も偽りなのだ。毎朝、仕事にかかっても、失敗する場合もあり得るではないか、成功するとは限らない。絵を描くためには、落ちついた規則正しい生活が絶対に必要だ。