生かされてある日々

「世界はエネルギッシュな人間のものである」……エマーソン(1803~1882)米の思想家

詩「マザーテレサの瞳」

茨木のり子著「倚りかからず」から

  「マザーテレサの瞳」

マザーテレサの瞳は
時に
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザーテレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが溶けあって
怪しい光を湛えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂なくして
インドでの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザーテレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに住みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる

鷹の目は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の目は救いあげた
埃だらけの瀕死の病人を
ーーなぜこんなことをしてくれるのですか
ーーあなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨のような重たさ

自分を無にすることができれば
かくも豊饒なものがなだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となる

たった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

外科手術の必要な者に
ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を

ーー言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った

 

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ジュール・バスティアン=ルパージ ュ作