生かされてある日々

「世界はエネルギッシュな人間のものである」……エマーソン(1803~1882)米の思想家

同語反復のためではなく

ともかく人間に課された仕事は何よりもまず、自分自身の人生を生き抜くこと。外から押しつけられた人生、指示された人生は、それがどんなに上品に見えるものでも駄目なのです。人生は誰にとっても一度限りのものであり、それがどんな風に終わるか、われわれはよく知っています。この唯一のチャンスを他人の外見、他人の模倣のために、つまり同語反復のために浪費してしまったら、さぞ悔しいことでしょう。しかも、歴史的必然性の宣伝者たちは人をそそのかしておきながら、いっしょに棺桶に入ってくれるわけでもなく、「ありがとう」も言わないのですから…
   ※歴史的必然性の宣伝者=マルクス主義の亜流(私注)

 

人間は趣味をーー特に文学上の趣味をーー持つと、どんな政治的煽動につきものの繰り返される文句や、調子のいい呪文を受け付けにくくなるからです。……(略)……
個人の美的経験が豊かであればあるほど、趣味はしっかりしたものになり、道徳的な選択も明確になり、そして個人はより自由になります。

 

もしも人間を動物界の他の代表者と区別するものが言葉だとすれば、文学、特に詩は、言語芸術の最高の形態なのですから、ちよっと大雑把な言い方をすれば、種としての人類の目的だということになるでしょう。

詩人が言語を自分の道具にしているわけではありません。むしろ、言語のほうこそが、自らの存在を継続させるための手段として詩人を使うのです。

 

話し相手としては友人や恋人よりも書物のほうが頼りになるように思われます。小説や詩は独り言ではなく、作者との会話であり、それはーー他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば「相互厭人的」な会話なのです。そして、この会話の瞬間に書き手は(略)…読み手と対等になり、読み手は書き手と対等になります。この平等は意識の平等であり、これは一生、おぼろげな記憶としてであれ、はっきりとした記憶としてであれ、人間のもとに残ります。そしていずれこれが(略)…個人の行動を規定することになるのです。

 

文学に対する様々な犯罪の中で、作家の迫害、検閲よる規制、焚書といったことが、一番重い犯罪だというわけではありません。もっと重い犯罪があるのです。それは本を軽視すること、本を読まないことです。
この犯罪は人間は、自分の一生によって償うことになります。

     ……ヨシフ・ブロツキイ著「私人―ノーベル賞受賞講演」より

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ヴィスワヴァ・シンボルスカ「終わりと始まり」を探していたら、ノーベル賞つながりでこの本が紹介されていて評価もよく、安かったのでこの本を先に買いました(中古で)。
文庫サイズでハードカバー製本、しかも本文35ページ解説込みでも62ページ。内容はとても濃くて、一、二回読んでもわかりにくいところが多くて、それでも読み返して味わい読みたくなる本です。